生誕100周年を迎えた京マチ子の代表作『地獄門』を上映会してみませんか。

京マチ子は、『痴人の愛』など肉体派女優、官能女優として全盛期の大映映画を牽引した女優としても有名ですが、それ以上にヴェネチア映画祭、カンヌ映画祭、アカデミー賞において大賞を受賞した『羅生門(黒澤明監督)、『雨月物語』(溝口健二監督)、『地獄門』(衣笠貞之助監督)の三作品に立て続けに主演し、グランプリ女優と呼ばれた日本を代表する女優といったほうが妥当かもしれません。彼女の存在は、海外でも評判を呼び、ハリウッド全盛期のMGM作品『八月十五夜の茶屋』ではマーロン・ブランドと主演を張ることにもなりました。そんな大女優でもありますが、Wikipediaにおける記述を確認いたしますと、原節子や高峰秀子、若尾文子に比べ、京マチ子のページの記述は極めて限定されたものでした。彼女の名声や実力を知っているものには寂しく感じられます。今年は、京マチ子生誕100年にたります。日本映画の全盛期を支えた国際的スター京マチ子に再び光があたり、若い人たちにも周知されるようになることを期待したいと思います。

1924年生まれ、三歳のときにブラジルに渡った父と音信不通になります。その後、大阪少女歌劇団(OSSK)に入団、予科生からスタートしましたが、戦後には幹部に昇進。松竹歌劇団(OSK)の先輩笠置シズ子のブギウギの人気に倣い、浅草国際劇場や日劇などで同じブギウギをもとにしたダイナミックなダンスと曲線美で人気を博しました。1949年OSKを退団し大映の専属女優へと転進します。出世作は谷崎潤一郎原作の『痴人の愛』(1949年)。豊満な肉体と天真爛漫な性格のナオミ役を見事に演じ、戦前の女優では演技しえなかったそのエロティシズムと媚態びたいは、映画界から大きな注目を浴びることになりました。

翌年1950年には、黒澤明監督の『羅生門』において三船敏郎、森雅之らと共演。映画は、ヴェネチア国際映画祭で見事にグランプリを受賞。女の残忍性を躊躇なく表現した京マチ子のダイナミックな演技がなければ、『羅生門』は、大きな成功には至らなかったと言っても過言ではないでしょう。当初、原節子を候補と考えていた黒澤明でしたが、撮影テストの段階なのに、躊躇うこともなく眉毛をすべて剃り落とした京マチ子の姿を見てキャスティングを決意したと言われています。1953年に公開された溝口健二監督の『雨月物語』では、幽霊屋敷の死霊を演じ、その恐ろしくも幽玄な姿は、この映画の主題を浮き彫りにさせるとともにこの作品に優美さと気品を与えることにもつながりました。さらに同年、大映カラー第一作目である衣笠貞之助監督の『地獄門』にも出演。華奢かしゃな王朝の衣装をまとった艶やかな姿は、日本の映画史に永久に記憶される映像となり、米国アカデミー賞では名誉賞と衣装デザイン賞に輝きました。

海外でも評判となり大女優となった京マチ子に思わぬニュースが舞い込んできました。三歳で生き別れとなり行方のわからなかった父親が、大女優となった娘、京マチ子の姿をスクリーンで見たことが地元のサンパウロ新聞で報道されたというのです。それがきっかけとなり父子の間で文通がはじまり、その後ニューヨークで再会することに至りました。

三本の国際映画祭受賞作ばかりでなく、多くの名作に出演。『祇園の姉妹』の戦後版とも言える『偽れる盛装』や、三船敏郎と共演した『馬喰一代』、成瀬巳喜男監督の『あにいもうと』、市川崑監督の『鍵』や『ぼんち』など、忘れられることのできない珠玉の名作の数々に出演しました。スクリーンで躍動する彼女の姿は、文字通り全盛期の日本映画の象徴とも言えるでしょう。1960年代の中盤移行、映画も斜陽化し、1971年に大映が倒産した後は、映画界での活躍は限定されたものになりましたが、その後もテレビや舞台で精力的に活躍を続けました。昭和62年に紫綬褒章、平成6年には勲四等宝冠章を受章し、80歳を過ぎても舞台「女たちの忠臣蔵」に出演するなど活躍。2019年(令和元年)5月12日午後0時18分、心不全のため東京都内の病院で死去。享年95歳。

Bunkidoでは、京マチ子の代表作である『地獄門』を用意しております。この機会に上映会を検討してみてはいかがでしょうか。

地獄門

(1953/10/31公開/89分/カラー)

監督:衣笠貞之助
衣装デザイン・色彩デザイン:和田三造
出演:         長谷川一夫、京マチ子、山形勲

カンヌ映画祭グランプリの日本映画のマスターピース

「これこそ美の到達点」とジャン・コクトーが激賞した。1954年度のカンヌ国際映画祭のグランプリ受賞作品。また米国アカデミー賞名誉賞と衣装デザイン賞も受賞。珍しく長谷川一夫が悪役を、妖艶な女役がはまり役の京マチ子が貞淑な妻役を演じた。